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【視鬼のコラム】「いつか当たる」――その口癖が、あなたから金を遠ざけている

“いつか”は希望の言葉ではない。今日やらなくていい、という許可証だ

コラム連載
視鬼畏怖・警告ろうそくの火のむこうから、目をそらしたくなる本質を鋭く突く警告の語り手。主な発信:TikTok ・ プロフィールを見る →

視鬼(しき)じゃ。今日は、そなたの胸に、ひとつ鏡を突きつける。――「いつか」。そなたは一日に、この言葉を何度つぶやいておる。「いつか当たる」「いつか余裕ができたら」「いつか、良いことがある」。やさしい言葉のように聞こえるであろう。希望を語っているように聞こえるであろう。じゃが、私にはそう視えぬ。その「いつか」は、そなたが今日、動かずに済ませるための――言うなれば、自分で自分に切る、いちばん甘い許可証じゃ。今日はその許可証を、一枚ずつ、破り捨てにいく。耳が痛いのは承知の上。じゃがな、痛いところにこそ、そなたの伸びしろが埋まっておるのじゃ。

この記事のポイント・「いつか」と先延ばしにしがちな人へ、その口癖の正体を鋭く突くコラムです
・“いつか”は希望ではなく、「今日やらなくていい」という自分への許可証になりがちです
・厳しい言葉のなかに、救いを込めています。怖がらせて終わりにはしません
・本コラムは娯楽・言い伝えの範囲の読みものです。宝くじ等の当選を保証・推奨するものではありません

視鬼畏怖・警告

甘い夢を売る気はない。今日は、そなたが毎日つぶやいておるであろう、ある口癖の話をする。目をそらしたくなる話ほど、役に立つ。よう聞いておくれ。

「いつか」と言うたびに、そなたは今日を手放しておる

まず、事実から突きつけよう。人は「いつか」と口にするとき、ほっとする。「今すぐでなくていい」「まだ猶予がある」――そう思えるからじゃ。じゃがな、そのほっとした瞬間に、そなたは何を差し出しておるか、気づいておるか。「いつか」と言うたび、そなたは“今日の一手”を、まるごと手放しておるのじゃ。

「いつか貯める」と言う者は、今日は貯めぬ。「いつか始める」と言う者は、今日は始めぬ。「いつか当たる」と言う者は、今日を変えぬ。――「いつか」は、未来を約束する言葉の顔をして、その実、今日を放棄する言葉なのじゃ。しかも質が悪い。放棄しているのに、希望を語った気分になれる。だから罪悪感もない。痛みもない。ゆえに、いくらでもくり返せてしまう。そうして「いつか」を重ねた者の未来には、何が残ると思う。……“いつか”の山じゃ。掴んだ金は、一円も残っておらぬ。

“逃げの祈願”と“縁起かつぎ”は、似て非なるもの

ここで、はっきり分けておこう。私は「夢を見るな」とは言わぬ。宝くじを買うな、とも言わぬ。じゃが、同じ一枚のくじでも、心の向きひとつで、毒にも薬にもなる。そこを見誤るな。

目の前の家計から目をそらし、今日の仕事から逃げるように、「いつか当たれば、ぜんぶ解決する」とすがる――これは“逃げの祈願”じゃ。今日を手放す呪いよ。一方、今日を精いっぱい生きたうえで、決めた予算の内で、笑って一枚を買う――これは“縁起かつぎ”。今日を励ます杖じゃ。前者は、そなたを今日から遠ざける。後者は、そなたの今日を軽くする。行為は同じでも、まるで逆のものじゃ。

そなたに問う。そなたの「いつか当たる」は、どちらの心から出ておる。今日をきちんと生きたうえで、余った銭で笑って言うておるか。それとも、今日の重さから目をそらすために、すがるように言うておるか。――胸に手を当てれば、答えは自分がいちばん知っておろう。すがった瞬間、金はそなたを見透かして、するりと逃げていく。そう語り継がれておる。断じて保証はせぬがな。」

なぜ人は「いつか」に逃げこむのか

厳しく突いておるが、そなたを愚か者と言うておるのではない。「いつか」に逃げこむのは、人の心の、ごく自然な働きじゃからな。理由は、単純よ。――「今日やる」は怖い。「いつかやる」は怖くない。それだけのことじゃ。

今日、家計に向き合えば、見たくない数字を見ることになる。今日、始めれば、うまくいかぬ自分を目にするかもしれぬ。今日、動けば、失敗という痛みの危険がついてまわる。ところが「いつか」の世界には、その痛みが一切ない。まだ始めておらぬのだから、失敗もない。傷もつかぬ。だから人の心は、痛くない「いつか」の部屋に、そっとこもってしまう。――これは弱さではない。心の仕組みじゃ。じゃがな、仕組みだと知らぬまま流されれば、一生その部屋から出られぬ。知った者だけが、扉を開けられるのじゃ。

だから今、そなたがこれを読んで、少し胸が痛んだのなら――それは良い兆しじゃ。痛みを感じたということは、そなたの心が、その部屋の扉に手をかけたということ。目をそらさずに読み進めておる、その一点で、そなたはもう「いつか」の住人ではなくなりかけておる。」

「いつか」を「今日の一手」に、翻訳し直せ

では、どうする。「いつか」を、心から追い出せとは言わぬ。そんなことは、できぬからな。かわりに、「いつか」を口にした瞬間、すぐさま“今日の一手”に翻訳し直す癖をつけよ。これだけでよい。

「いつか貯めよう」と思うたら、すぐこう問え。「では、今日、いくら貯める」。百円でも、五百円でもよい。額ではない。“今日”という一点に、一手を打てるかどうかじゃ。「いつか片づけよう」と思うたら、「では、今日、どの一枚を片づける」。「いつか相談しよう」と思うたら、「では、今日、どの窓口を一つ調べる」。――「いつか」は、遠い霧のなかにある。じゃが「今日の一手」は、そなたの手の届くところにある。霧を掴もうとするな。手の届く石を、一つだけ動かせ。

小さいと侮るな。「いつか」を千回つぶやいても、そなたは一歩も進まぬ。じゃが「今日の一手」を一回打てば、そなたは確かに一歩進む。千の希望より、一つの一手じゃ。金を掴む者は、例外なく、この翻訳を毎日やっておる。掴めぬ者は、毎日「いつか」を積み上げては、その山の高さを、希望だと勘違いしておるのじゃ。」

「今日の私にできること」だけを、数えよ

もうひとつ、渡しておこう。「いつか」に逃げやすい者ほど、遠くばかりを見ておる。何百万の貯金、何年後の安心、大きな当たり――遠い山ばかり見上げて、足元の一歩を、忘れておる。遠い山は、見上げるほどに遠く感じ、心を萎えさせる。ゆえに、また「いつか」へ逃げる。この繰り返しじゃ。

断ち切りたくば、視線を足元に落とせ。「今日の私に、できること」だけを数えよ。今日、記録できる一つの支出。今日、断てる一つの無駄。今日、調べられる一つの情報。今日、稼げる一円。――遠い山は、今日は忘れてよい。今日の一手を積んでいけば、山は、いつのまにか近づいておる。近づいた山は、もはや「いつか」ではない。「もうすぐ」じゃ。そうなって初めて、そなたの「いつか」は、逃げの呪いから、届く希望へと姿を変える。

それにな、足元の一手を積む者には、思わぬごほうびがある。今日の一手を打つたび、そなたのなかに「私は、自分の手で前に進めておる」という、静かな手ごたえが残るのじゃ。この手ごたえこそ、「いつか」に逃げこむ心を、内側から溶かしていく。逃げる者は、待つあいだ、何も手にできぬゆえ、いつまでも不安なままよ。積む者は、毎日ひとつ、確かな手ごたえを手にするゆえ、日ごとに心が据わっていく。金は、その据わった心のほうへ、寄っていくといわれておる。

覚えておけ。金運の巡りは、遠くを夢見て今日を手放す者ではなく、今日の一手を静かに積む者の背を、そっと押すとされておる。“いつか”を待つ者と、“今日”をみがく者。同じ空を見上げても、掴むものはまるで違うてくる。私は、そう視ておる。」

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「いつか」には、三つの顔がある

そなたが逃げこむ「いつか」には、三つの顔がある。見分けられるようになれば、だまされにくうなる。ひとつ覚えておけ。

ひとつめの顔は、「いつか、お金ができたら」。これは“条件待ち”の顔じゃ。お金ができたら旅に出る、できたら親孝行する、できたら学び直す――そう言う者にかぎって、いざお金ができても、また別の「できたら」を持ち出す。条件は、満たされるためではなく、動かぬ言い訳のために立てられておるからじゃ。ふたつめは、「いつか、良いことがある」。これは“お天気待ち”の顔。空を見上げて晴れを待つように、良い運が向こうから来るのを待っておる。じゃがな、運は、待つ者ではなく、今日の一手で場を整えた者のところへ舞い込む、とされておる。みっつめが、いちばん厄介――「いつか当たる」。これは“奇跡待ち”の顔じゃ。今日の積み重ねを、たった一発の奇跡で飛び越えようとする。飛び越えられればよいが、来ぬまま歳月が過ぎれば、積み重ねなかったぶんだけ、そなたは後ろに下がっておる。

この三つの顔は、どれも「待て、動くな」とささやいてくる。じゃが、待っているあいだ、時だけは待ってくれぬ。時は、そなたが「いつか」とつぶやくその一瞬も、刻々と進んでおるのじゃ。三つの顔に気づいたら、こう返してやれ。「待たぬ。今日、一手だけ打つ」とな。それでよい。

まず、自分の“逃げ癖”を知るところから

とはいえ、自分がどんなふうに「いつか」へ逃げこむのか、その癖は、自分ではなかなか見えぬものじゃ。金の使い方、貯め方、勝負ごととの距離――人それぞれ、逃げこむ扉の場所が違う。扉の場所がわかれば、閉じ方もわかる。

金運の社の金運タイプ診断は、そなたが金とどう向き合いやすいか、その傾向を映す鏡じゃ。自分の癖を知れば、「だから私は、ここでいつも“いつか”に逃げておったのか」と、腑に落ちる。責めるためではない。閉じるべき扉を、見定めるためじゃ。

そして、日々の小さな縁起を、今日の一手の合図として使うのもよい。今日の金運を朝いちばんにのぞき、「今日は、これを一つやる」と、その日の一手を決める。占いや吉日は、当てるための道具ではない。今日という一日に、自分の足で立つための、小さな杭じゃ。すがるためではなく、今日を踏みしめるために使え。それが、縁起の正しい使い道というものよ。」

結びに――今夜、口にするのは「いつか」か、「今日」か

最後に、この読みものを開いてくれたそなたへ、問いをひとつ残す。難しいことは何もいらぬ。今夜、眠る前に、こう自分に尋ねてみよ。――「私は今日、“いつか”を何回つぶやき、“今日の一手”を何回打っただろうか」と。

その差が、そなたの明日を決める。厳しいようだが、これは呪いではない。むしろ救いじゃ。なぜなら、この差は、今日から、いくらでも縮められるからじゃ。生まれも育ちも、運の量も、関係ない。ただ「いつか」を一つ減らし、「今日の一手」を一つ増やす。それだけで、そなたの巡りは、静かに、しかし確かに、向きを変えはじめる。

私は、甘い言葉は言わぬ。じゃが、落ちる前には、必ず袖を引く。今、そなたの袖を引いておるのは、そのためじゃ。――さあ、今夜そなたが口にするのは、「いつか」か。それとも「今日」か。答えは、そなたの手のなかにある。視鬼のコラムは、また次の耳の痛い話を持って、ここで待っておる。逃げたくなったら、いつでも戻ってこい。何度でも、袖を引いてやる。」

※本記事は占い・風水・古くからの言い伝えを、娯楽の範囲でご紹介するものです。記載の内容は効果や結果を保証するものではありません。宝くじ等の当選を保証するものではなく、ゲン担ぎ・縁起としてお楽しみください。暦(吉日)は流派・暦により差が出る場合があるため、実際の日付は最新の暦でご確認ください。健康・体調に関する判断は専門家にご相談ください。一部にプロモーション(PR)を含みます。