視鬼(しき)じゃ。今日は、そなたが一日の終わりに、まるで栓を抜くように口から漏らしておるであろう、あの言葉の話をする。――「あの上司が、また」。「どうせ、うちの会社は」。「この世の中は、もう終わっておる」。仕事帰りの電車で、家に着いた夕餉の卓で、寝入りばなの布団のなかで、そなたはこの手の言葉を、まるで日課のように口にしておらぬか。吐けば、少しは楽になる。憂さが晴れる。悪気などなかろう。じゃがな、私にはこう視える。その言葉を、いちばん近くで、いちばん多く、いちばん深く浴びておるのは――上司でも、会社でも、世の中でもない。そなた自身の、耳と心じゃ。今日は、その「愚痴」という日課の正体を、一枚ずつ剥がしにいく。剥がした先に視えてくるのは、性格の善し悪しの話ではない。愚痴を吐くたび、そなたが福の宿る余地を、自分の手でどれだけ塗り潰しておるか――その、もっと奥の話じゃ。
・吐いた言葉を、いちばん近くで浴びているのは、他の誰でもない自分自身です
・厳しい言葉のなかに、救いを込めています。責めて終わりにはしません
・本コラムは縁起・言い伝えをもとにした読みものです
視鬼畏怖・警告
今日は、そなたが「ただの憂さ晴らし」と思うておる、あの一言の話をする。愚痴も不平も、吐けば少しは楽になる。それは、わしも否とは言わぬ。じゃが、その「少し楽になる」の裏で、そなたが毎日、静かに手放しておるものがある。今日は、それを一枚ずつ、明かしにいく。耳が痛いのは、承知の上よ。
その言葉を、いちばん浴びておるのは「そなた」じゃ
まず、当たり前のところから突きつけよう。そなたが愚痴を吐くとき、その言葉は、まず誰の耳に届くと思う。聞かされる連れ合いか。飲み屋の友か。それとも、憎き当の相手か。――違う。いちばん近くで、いちばんはっきりと、その言葉を浴びておるのは、そなた自身の耳と心じゃ。口から出た言葉は、まず自分の頭蓋のなかで響き、心の底に沈む。他人が聞くより先に、そなたがまるごと、それを飲み下しておるのじゃ。
一日に一度なら、たわいもない。じゃが、朝に晩に、事あるごとに愚痴を重ねればどうなる。そなたは毎日、自分の口から「世は不公平じゃ」「わしは損ばかりしておる」「どうせ何も変わらぬ」と、自分の心へ言い聞かせておることになる。これはもはや、憂さ晴らしではない。自分で自分に、毎日欠かさず塗りつけておる、暗い色じゃ。人は、他人の言葉より、自分の口から出た言葉をこそ、深く信じてしまう生きものよ。だから、たちが悪い。他人の愚痴なら聞き流せても、自分の愚痴は、逃げ場なく、まっすぐ心の芯に染みてしまうのじゃ。
そなたは、暗い心で生きたくて愚痴を吐いておるのではなかろう。むしろ、楽になりたくて吐いておる。じゃが、口が、そなたの願いとは逆に、暗い色を、毎日毎日、自分の心へ塗り重ねておる。願いと口ぐせが、真っ向からけんかしておる。――この矛盾に、まず気づいてほしい。」
見覚えはないか――帰り道、頭のなかで続く「あの一言への返し」
少し、そなたの日々を覗かせてもらおう。――仕事の帰り道。今日、上司から言われた心ない一言が、頭のなかで、何度も何度も再生される。「あのとき、こう言い返してやればよかった」。ありもせぬ反撃を、頭のなかで、幾度も練り直す。電車を降りても、飯を食うても、風呂に浸かっても、その一言が、まだ耳の奥で鳴っておる。……見覚えは、ないか。
あるいは、こういう晩もあろう。せっかくの休みの日、家族と出かけたその席で、口をついて出るのは、職場の不満、世の中への文句、うまくいかぬ誰かの悪口。目の前には、笑おうとしておる大切な者がおるのに、そなたの心は、ここにおらぬ憎き相手のほうを、まだ向いておる。――そうして、二度と戻らぬ今日という一日を、そなたは、ここにおらぬ者への文句で、静かに塗り潰してしまう。
ここで、よう考えてみよ。そのとき、憎き相手は、どうしておった。おそらく、そなたのことなど、とうに忘れて、のうのうと飯を食うておる。そなたが一日じゅう、心をすり減らして相手の言葉を反芻しておるあいだ、当の相手は、痛くも痒くもない。愚痴と反芻に、そなたは一日という、かけがえのない元手を丸ごと投じておるのに、相手からは一銭も取り戻せておらぬ。この、割の合わなさ。――私がいちばん案じておるのは、そこよ。」
「ない、足りぬ」を数える口は、「ある、足りておる」を数えられぬ
もうひとつ、恐ろしいことを教えよう。愚痴が口ぐせになった者は、いつしか、目の前にある「良きもの」が、まるで視えなくなっていく。これは大げさな脅しではない。心の、ごく単純な仕組みじゃ。
人の心は、口にした言葉の色で、世界を塗って見る。「足りぬ、うまくいかぬ、あいつが悪い」と唱えつづける者の目には、欠けたものばかりが、やたらと大きく映るようになる。今日うまくいった小さな一事には気づかず、うまくいかなかった一事ばかりを、夜、布団のなかで数える。今日かけてもらった優しい一言は忘れ、刺さった一言だけを、幾度もなぞる。――こうして、「足りぬ」と数える口は、いつのまにか「足りておる」を数える力を失っていくのじゃ。
じゃがな、福の巡りというものは、古来「足るを知り、感謝を口にする者の背を押す」と語り継がれておる。今あるものに気づき、それに小さく礼を言える者のところへ、次の巡りが回ってくる、とな。逆に、あるものすら「足りぬ」と切り捨て、感謝より不平を先に口にする者の手からは、せっかく巡ってきた福も、こぼれ落ちていくという。――なぜなら、こぼれたことにすら、気づけぬからじゃ。そなたの日々には、思うておるより多くの「ありがたい」が、すでに載っておる。愚痴の口ぐせが、それを見えなくしておるだけよ。」
愚痴の下に隠れておるのは、たいてい「わかってほしい」じゃ
ここで、そなたの胸の奥を、もう一枚めくろう。愚痴や不平――この言葉は、たいてい、本当の気持ちの“替え玉”じゃ。人は、言いにくい本音を、文句の形にすり替えて口にする。そなたの愚痴の下には、どの本音が隠れておる。
いちばん多いのは、「わかってほしい」じゃ。頑張っておるのに、認められぬ。しんどいのに、誰も気づいてくれぬ。その寂しさを、まっすぐ「わかってほしい」と言うのは、照れくさく、こわい。だから、上司への文句、会社への不平という、とげとげしい形にくるんで、そっと差し出す。ふたつめは、「こわい」。自分ではどうにもできぬ、という無力さがこわい。だから「あいつのせいじゃ」「世の中が悪い」と、外に理由を置く。そうすれば、自分が動かずに済む理由になり、傷つかずにいられる。
どれも、弱さではない。人の心の、当たり前の働きじゃ。じゃがな、替え玉を吐きつづけるうちに、そなた自身が、その替え玉を本物だと信じこんでしまう。ここが落とし穴よ。「わかってほしい」も「こわい」も、向き合えば手立てのある気持ちじゃ。ところが「あいつが悪い」という文句の顔をかぶせた瞬間、それは、そなたに何もさせぬ、動かしようのない壁に化ける。――そなたが本当に閉じこめておるのは、憎き相手ではない。文句にすり替えた、そなた自身の、やわらかな本音のほうじゃ。」
その言葉を、いちばん近くで浴びておるのは――そばの大切な者じゃ
自分の耳の話をしたが、愚痴が届くのは、自分だけではない。そなたが吐いた言葉を、もう一人、逃げ場なく浴びておる者がおる。――そなたのそばにおる、いちばん大切な者じゃ。連れ合い。子。親。気を許した友。そなたが「この人になら」と、安心して不平を吐ける、その相手よ。
そなたにとっては、ほんの憂さ晴らし。じゃが、それを毎日浴びせられる側は、どうじゃ。会うたびに、職場の文句、世の中への呪詛、誰かの悪口を聞かされる。返す言葉に困り、なだめ、相づちを打ち、そのたびに、その者の心も、少しずつ重く沈んでいく。そなたが軽くなった分だけ、そなたが愚痴を預けた相手の心は、重くなっておる。安心して吐ける相手とは、言い換えれば、そなたの毒を、黙って引き受けてくれておる相手ということよ。
そして、もし、そなたのそばに幼い者がおるなら、なおのこと聞いてほしい。子は、親の言うことは聞かぬくせに、親の口ぐせは、そっくり受け継ぐ。「世の中は不公平じゃ」「どうせ頑張っても無駄じゃ」を毎日聞いて育った子は、大人になっても、無意識にその色眼鏡で世界を見る。――愚痴は、そなたの心を暗くするだけでなく、いちばん近くにおる、いちばん大切な者の心まで、そっと暗く染めていく。軽く見るな。そなたの口から出る言葉は、そなたひとりのものではないのじゃ。」
愚痴の多い口には、良き縁も、良き話も、寄りつかぬ
もうひとつ、突いておかねばならぬことがある。愚痴と不平の多い口は、まわりの者の耳にも、確かに届いておる。そして、知らぬまに、そなたの背中に一枚の値札を貼っていく。――「この者のそばは、なんとなく気が重い」という値札をな。
良き縁の話、面白い誘い、ちょっとした儲け話――そういうものが舞いこんだとき、人は無意識にこう考える。「あの人に持っていっても、どうせ文句か、粗探しが返ってくるだけだろう」。そうして、明るい話は、明るい者のところへ集まり、暗く不平の多い者のまわりからは、そっと引いていく。悪気があってのことではない。ただ、人は、笑いのある者のそばに寄り、ため息の多い者のそばからは、無意識に離れる。それだけのことじゃ。
そして、福の縁というものは、たいてい人の手を介してやってくる。仕事も、掘り出し物も、思わぬ助けも、多くは「人」が運んでくる。その人が、そなたの口ぐせを聞いて、そっと足を止めておるとしたら――愚痴ひとつで、そなたは、めぐってくるはずだった縁を、自ら追い払っておるのかもしれぬ。言葉は、そなたの心の色だけでなく、まわりの縁の向きまで変えてしまう。「福は、笑う門に来る」と古人が言うたのは、気休めではない。人の集まる場所にこそ、福も集まる――その、静かな理を突いた言葉よ。」
なぜ、やめられぬのか――愚痴は“楽”で、しかも“癖になる”からじゃ
厳しく突いておるが、そなたを責めておるのではない。愚痴がやめられぬのには、ちゃんと理由がある。単純よ。――吐くと、その場は楽になるからじゃ。
不平を一つ吐き出せば、胸のつかえが、いっとき晴れる。「わしは悪くない、悪いのはあいつじゃ」と外に理由を置けば、自分を責めずに済む。頭を使わず、自分を省みず、その場をやり過ごせる。まことに手軽な、心の憂さ晴らしよ。人の心は、楽なほうへ流れる。だから、いちど癖になれば、なかなか手放せぬ。これは意志の弱さではない。心が楽を選ぶ、当たり前の働きじゃ。
じゃがな、手軽なものには、たいてい隠れた代金がついておる。この憂さ晴らしの代金は――“機嫌よく生きる力”と“自分で変える気力”じゃ。愚痴で片づけるたび、そなたは「では、自分に何ができるか」と考える機会を、一つずつ捨てておる。その場は楽になっても、根っこの重さは、少しも軽くならぬ。それどころか、吐くほどに心はその暗い色に慣れ、次第に、愚痴なしでは一日を終えられぬようになる。――手軽さの代金は、いつも後払いで、しかも高くつくのじゃ。」
愚痴を「消せ」とは言わぬ。ひとつ吐いたら、ひとつ数えよ
では、どうする。「愚痴を一切吐くな」などとは言わぬ。人じゃもの、しんどいときはある。溜めこんで心を病むより、吐いたほうがよいときもある。かわりに、ひとつ愚痴を吐いたら、そのあとに、良きことをひとつ、口にしてみる。これだけでよい。
「今日、あの上司にこう言われて、腹が立った」。――よい、吐け。じゃが、そのあとに、こう続けてみよ。「じゃが、あの同僚が、そっと助けてくれた」。「今日は腹の立つことばかりじゃった。じゃが、飯は温かかったし、屋根の下で眠れる」。愚痴を消すのではない。愚痴のあとに、必ず“ある”を一つ添える。この「ひとつ吐いたら、ひとつ数える」を癖にするだけで、そなたの心が浴びる言葉の色は、少しずつ変わっていく。
あるいは、寝入りばなに、その日の憎き一言を反芻しそうになったら、その手を止め、こう問い直せ。「今日、ありがたかったことは何じゃ」とな。――言葉を変えるだけで、心の向きが変わる。心の向きが変われば、目に映るものが変わる。目に映るものが変われば、まわりに集まる人も、変わりはじめる。福運とは、まずもって、この“心の向き”の話なのじゃ。大きな元手はいらぬ。今日、寝る前に口にする一言を、一つ選び直す。それだけで、巡りは向きを変えはじめる。」
自分の「愚痴の癖の在りか」を、まず知れ
とはいえ、自分がどんなときに愚痴に逃げこむのか、その癖は、自分ではなかなか見えぬものじゃ。疲れたときにだけ口が悪くなる者もおれば、人と比べたときにだけ不平が湧く者もおる。「わかってほしくて」吐く者もおれば、「こわくて」外に理由を置く者もおる。癖の在りかが違えば、添えるべき「ある」の場所も、違うてくる。
金運の社の金運タイプ診断は、そなたが物事とどう向き合いやすいか、その傾向を映す鏡じゃ。自分の癖を知れば、「だからわしは、あの場面でいつも口が重くなっておったのか」と、腑に落ちる。責めるためではない。ひとつ吐いたら、どこで“ある”を数え直せばよいか、見定めるためよ。
そして、朝いちばんに今日の金運をのぞくのも、口の癖を変える、よい足がかりになる。占いや吉日は、当てるための道具ではない。「今日は、寝る前に、良きことをひとつ数えてから眠る」と、その日ひとつ、自分に小さな約束をするための杭じゃ。すがるためではなく、今日の口を整えるために使え。それが、縁起の正しい使い道というものよ。迷うたときはおみくじを一度引いて、出た言葉を、その日の心の支えにするのも一興じゃ。占いの言葉を、自分を励ます杖に変えられる者は、強い。」
「ありがたい」を口にできる者の門に、福は集う
そなたに、ひとつ願いを渡しておく。今日から、一日の終わりに、心のなかで小さくこう唱えてみよ。――「今日、ありがたかったことは、何じゃ」とな。大きなことでなくてよい。「飯が温かかった」「誰かが笑うてくれた」「今日も、無事に一日が終わった」。当たり前と思うておることに、ひとつずつ「ありがたい」と気づく。これは、自分をごまかすことではない。“ある”を数える力を、取り戻す稽古じゃ。
愚痴を唱える者の門は、いつも固く閉ざされておる。文句と警戒で、こわばっておる。じゃが、こわばった門には、良き人も、良き話も、寄りつけぬ。一方、「ありがたい」と言える者の門は、ふっとゆるみ、ほのかに明るい。明るい門にこそ、人が集い、その人の手を介して、次の福が、そっと運ばれてくる。福の巡りは、不平を数える者ではなく、感謝を口にできる者の門に集うと語り継がれておる。断じて保証はせぬがな。じゃが、「笑う門に福来たる」――この古い言葉が、なぜ千年も語り継がれてきたか。そこには、人の世の、確かな理が宿っておる。
覚えておけ。「あいつが悪い」と「ありがたい」。口にする言葉は、たった数文字の違いじゃ。じゃが、その数文字が、そなたの心の色を、そばの大切な者の心を、まわりに貼られる値札を、そして集まってくる人と縁の向きまでを、まるごと変えていく。同じ一日を生きても、口にする言葉ひとつで、宿るものはまるで違うてくる。私は、そう視ておる。」
結びに――今日、そなたの口が最後に唱えるのは、どちらの言葉じゃ
最後に、この読みものを開いてくれたそなたへ、問いをひとつ残す。難しいことは、何もいらぬ。今日一日の終わり、こう自分を見張ってみよ。――「わしは今日、いくつ愚痴を吐き、いくつ“ありがたい”を口にしただろうか」とな。
その差が、そなたの明日を、静かに決めていく。厳しいようだが、これは呪いではない。むしろ救いじゃ。なぜなら、愚痴の癖は、生まれつきのものではない。今日から、いくらでも変えられるからじゃ。育ちも、今の境遇も、関わりない。ただ、愚痴を一つ吐いたら、“ありがたい”を一つ添える。それだけで、そなたの心が浴びる言葉が変わり、そばの者の心が軽くなり、そなたの門に、人と福が集いはじめる。
わしは、甘い言葉は言わぬ。じゃが、落ちる前には、必ず袖を引く。今、そなたの袖を引いておるのは、そのためじゃ。――さあ、今日、そなたの口が最後に唱えるのは、心を暗く塗る呪いの言葉か。それとも、門をひらく、感謝の言葉か。答えは、そなたの口のなかにある。視鬼のコラムは、また次の耳の痛い話を持って、ここで待っておる。逃げたくなったら、いつでも戻ってこい。何度でも、袖を引いてやる。」
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