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コラム連載 ・ 視鬼

【視鬼のコラム】人の財布の中身が気になる者は、自分の財布を見ておらぬ

よその庭を眺める間に、そなたの畑は枯れていく

コラム連載
視鬼畏怖・警告ろうそくの火のむこうから、目をそらしたくなる本質を鋭く突く警告の語り手。主な発信:TikTok ・ プロフィールを見る →

視鬼(しき)じゃ。今日は、そなたの目が、日に何度も、つい吸い寄せられてしまうであろう、ある先の話をする。――他人の、財布の中身じゃ。あの同期は、いくらもらっておるのか。あの家は、どうしてあんな暮らしができるのか。あの者の羽振りの良さは、何の稼ぎか。友の話を聞きながら、店で隣の客を見ながら、画面のなかの誰かの暮らしを眺めながら、そなたの心は、そろばんを弾いておらぬか。悪気はなかろう。ただの好奇心、ただの世間話のつもりであろう。じゃがな、私にはこう視える。そなたがよその財布を覗きこんでおる、まさにそのあいだ――そなたの目は、自分の財布の中身を、ただの一度も、見ておらぬ。今日は、その視線の癖を、一枚ずつ剥がしにいく。耳が痛いのは承知の上。じゃが、痛むところにこそ、枯れかけた畑に水を引く、その水路の在りかが隠れておるのじゃ。

この記事のポイント・他人の収入や暮らしぶりが気になって仕方ない人へ、その視線の正体を突くコラムです
・よそを覗いているあいだ、自分の手のなかを一度も見ていないことに気づくためのものです
・厳しい言葉のなかに、救いを込めています。責めて終わりにはしません
・本コラムは縁起・言い伝えをもとにした読みものです

視鬼畏怖・警告

今日は、そなたの目が、つい吸い寄せられてしまう先の話をする。悪気はなかろう。ただの好奇、ただの世間話のつもりであろう。じゃが、その視線が、よその庭にばかり注がれ、自分の畑を一度も見ぬ癖になっておるとしたら――聞かずに済ませられるか。よう聞いておくれ。

よそを覗く目は、自分の手もとを見ておらぬ

まず、当たり前のことから突きつけよう。目は、ひとつのものしか、まっすぐには見られぬ。そなたが、よその財布の中身に目を凝らしておるとき、その同じ目は、自分の手のなかにあるものを、一度も見ておらぬのじゃ。あちらを向いておる目は、こちらを向けぬ。当たり前のことよ。じゃが、この当たり前が、恐ろしい。

一日に一度なら、たわいもない。じゃが、暇さえあれば他人の稼ぎや暮らしぶりに目を走らせておるなら、そなたは一日の多くを、自分の畑ではなく、よその庭を見て過ごしておることになる。自分が今、何を持っておるのか。どこがうるおい、どこが乾いておるのか。何を蒔けば実るのか。――それらを見て、手を入れるべき目が、ずっとよそを向いておる。畑の主が、畑を見ぬ。これでは、実るものも実らぬ。

そなたは、よその財布が羨ましくて、それを見ておるのであろう。豊かになりたいから、豊かそうな者を見ておるのであろう。じゃが、その視線は、そなたを豊かにする方角と、真っ向から逆を向いておる。豊かになりたい者が、豊かになる手立てのある場所――自分の手もと――から、目をそらしつづけておる。この矛盾に、まず気づいてほしい。」

見覚えはないか――他人の話を、心のそろばんで弾いておる自分

少し、そなたの日々を覗かせてもらおう。――友との茶飲み話。友が、新しい買い物の話や、旅の話をする。そなたは相づちを打ちながら、心の奥で、そっとそろばんを弾いておらぬか。「これは、いくらしたのだろう」「この人、そんなに余裕があるのか」「うちより、上か、下か」。口では「いいねえ」と笑いながら、胸の内では、値踏みと、比べっこが始まっておる。……見覚えは、ないか。

あるいは、画面のなかの、見も知らぬ誰かの暮らし。きらびやかな部屋、贅沢な食事、羽振りのよさそうな日々。それを眺めては、ため息をつく。「それにひきかえ、自分は」と、勝手に自分の暮らしと引き比べ、勝手に沈む。――そなたは、会うたこともない他人の、切り取られた一場面を材料に、自分の心を、わざわざ暗くしておる。

ここで、よう考えてみよ。そうやって他人の財布を覗いて、そなたの財布は、一円でも増えたか。……増えはせぬ。それどころか、覗いておるあいだに過ぎた時と、そこで曇らせた心は、二度と戻らぬ。よその中身を測ることには、そなたを豊かにする力が、ひとつもない。あるのは、心をすり減らす力だけよ。私が、いちばん案じておるのは、そこじゃ。」

「気になる」の下に隠れた、本当の声

ここで、そなたの胸の奥を、もう一枚めくろう。他人の財布が「気になる」――この気持ちの下には、たいてい、口にしにくい本音が隠れておる。そなたの「気になる」の下には、どの声が潜んでおる。

ひとつは、「自分の値打ちが、不安じゃ」という声。自分ひとりでは、自分がどれほどの者か、わからぬ。だから、他人と並べて、上か下かを測らずにおれぬ。よその財布は、自分の値打ちを測るための、借り物の物差しになっておる。ふたつめは、「認めたくない」という声。自分の手のなかを直視するのが、こわい。足りぬところ、うまくいっておらぬところと向き合うのが、つらい。だから、目をよそへ逃がす。他人を測っておるあいだは、自分を見ずに済むからじゃ。みっつめは、「うらやましい」という、素直な声。これは、悪いものではない。じゃが、うらやみを、自分の畑を耕す力に変えられず、ただ他人の庭を眺めてため息をつくだけに使うておるなら、それは毒に変わる。

どれも、卑しさではない。人の心の、当たり前の働きじゃ。じゃがな、他人の財布を覗いておるかぎり、これらの声のどれも、鎮まりはせぬ。なぜなら、不安も、目そらしも、うらやみも、その答えは、よその庭ではなく、そなたの手のなかにしかないからじゃ。――そなたが本当に見つめねばならぬのは、他人の中身ではない。それを覗きたくなる、そなた自身の、この飢えのほうじゃ。」

よその庭は、いつも、実った後だけが見えておる

そなたが覗いておる「よその財布」の、いちばん大きなからくりを教えよう。――そなたに見えておるのは、いつも、他人の畑の“実った後の姿”だけじゃ。そこに至るまでの、種蒔きも、水やりも、草むしりも、日照りに耐えた日々も、そなたには一切見えておらぬ。

羽振りのよい者には、たいてい、そなたの見ておらぬところで積んだ、苦労や工夫や辛抱がある。楽々と稼いでおるように見える者も、裏では人知れぬ重荷を背負うておることが多い。じゃが、そなたに見えるのは、店先に並んだ果実だけ。だから、「あの人は運がいい」「自分とは違う」と、たやすく思うてしまう。他人の“結果”と、自分の“途中”を並べて、勝手に落ちこんでおるのじゃ。これほど不公平な比べっこはない。相手のいちばん良いところと、自分のいちばん頼りないところを、突き合わせておるのだからな。

金運の巡りというものは、古来「よその実りを羨む口より、自分の畑に鍬を入れる手のほうを、よしとする」と語り継がれておる。他人の庭をいくら褒めても、けなしても、そなたの畑には一粒も実らぬ。じゃが、その羨む気持ちを、「では、自分は何を蒔こうか」という問いに変えられたなら――よその庭は、はじめて、そなたの畑を耕す肥やしに変わる。眺めて終わるか、肥やしに変えるか。その一歩の違いが、大きい。」

覗いておるあいだに、そなたの畑は、静かに乾いていく

よそを覗くことの、本当の代金を教えよう。それは、覗いておるその時が過ぎることだけではない。――覗いておるあいだ、そなたの畑が、水を忘れられて、静かに乾いていくことじゃ。

畑というものは、少し目を離せば、たちまち草が生え、土がひび割れ、実りが落ちていく。毎日、少しずつ手を入れてやって、はじめて実る。ところが、そなたの目と心が、よその庭にばかり向いておるあいだ、自分の畑には、鍬が入らぬ。水が引かれぬ。今、自分にできる工夫、育てられる芽、繕える綻び――そういう「自分の手もとの手入れ」が、まるごと後回しになる。そうして、よその実りに一喜一憂しておるうちに、気づけば自分の畑は、痩せて、乾いて、雑草だらけになっておる。

これは、脅しではない。むしろ、そなたの背を押すために言うておる。考えてもみよ。そなたがよそを覗いて費やした時と心を、もし、自分の畑の手入れに注いでおったら――半年後、一年後、そなたの手のなかには、いくらかの実りが、確かに増えておったはずじゃ。他人の財布を覗く時間は、そのまま、自分の財布を育てそこなう時間じゃ。ひとつの視線に、それだけの取り引きが隠れておる。軽く見るな。」

その値踏みの目は、いつしか、そなたの縁までやせ細らせる

もうひとつ、静かに、じゃが確かに突いておかねばならぬことがある。よその財布を測る癖は、そなたの懐を乾かすだけでは済まぬ。そなたのまわりの縁まで、そっとやせ細らせていく。

他人を、たえず「上か下か」「いくら持っておるか」で測る目は、隠しておるつもりでも、にじみ出るものじゃ。値踏みされる側は、言葉にせずとも、感じ取る。「この人は、私の中身を測っておる」とな。すると、人は、そういう目の前では、心をひらかぬようになる。ほんとうの話も、良い縁の橋渡しも、こちらの値踏みを感じる相手には、そっと引いていく。――金の縁は、たいてい人が運んでくる。その人が、そなたの測る目を感じて、足を止めておるとしたら、そなたは、めぐってくるはずの縁を、自らの視線で追い払っておることになる。

逆に、他人の財布を測るのをやめ、その人そのものを、まっすぐ見られる者のまわりには、人が集まる。値踏みされぬ安心のなかで、人は心をひらき、良い話を持ち寄る。他人の中身を数える目を捨てた者ほど、まわりの心と、めぐる縁に、恵まれていく。――そなたが今、他人の財布へ注いでおるその視線を、その人の人柄そのものへ向け直せたなら。縁の巡りは、静かに、向きを変えはじめる。」

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なぜ、覗くのをやめられぬのか――そのほうが“楽”だからじゃ

厳しく突いておるが、そなたを責めておるのではない。よその財布を覗くのがやめられぬのには、ちゃんと理由がある。――そのほうが、自分の畑を耕すより、ずっと楽だからじゃ。

他人を測るのは、たやすい。眺めて、値踏みして、羨んだり、安心したりするだけでよい。鍬も、汗もいらぬ。ところが、自分の畑を耕すのは、骨が折れる。自分の足りぬところと向き合い、地道に手を入れ、実りをじっと待たねばならぬ。しんどい上に、すぐには実らぬ。人の心は、楽なほうへ流れる。だから、しんどい畑仕事から目をそらして、楽な「よそ見」へと逃げこむ。これは、意志の弱さではない。心が楽を選ぶ、当たり前の働きよ。

じゃがな、その楽には、隠れた代金がついておる。楽な「よそ見」を続けるほど、そなたの畑は荒れ、実りは遠のく。そして、荒れた自分の畑を見るのが、ますますつらくなり、いっそう、よそ見に逃げたくなる。――こうして、覗いては落ちこみ、落ちこんではまた覗く、抜け出せぬ堂々巡りにはまっていく。楽の代金は、いつも後払いで、しかも、利息がついて高くつくのじゃ。」

他人へ向けた目を、たった一度、自分の手もとへ返してみよ

では、どうする。他人が気になる心を、無理に消せとは言わぬ。そんな荒療治は続かぬ。かわりに、他人の財布を覗きたくなった、まさにその瞬間、その目を、自分の手のなかへ、ひょいと返す。これだけでよい。

「あの人はいくら稼いでおるのか」と思うたら、すぐに続けて、「では、自分は今、何を持っておるか」と問い直す。「あの家は羨ましい」と思うたら、「自分の暮らしのなかで、ありがたいものは何か」と数え直す。「同期に負けておる」と思うたら、「では、自分は今日、どの芽に水をやれるか」と問いに変える。――覗いた目を、そのまま自分へ返す。同じ一瞬でも、目の向きひとつで、心の働きが、まるで変わる。前者は、そなたを乾かす。後者は、そなたの畑に、一滴の水を引く。

これは、他人を見るなということではない。他人の暮らしから、学ぶべきことは学べばよい。じゃが、「測って、羨んで、終わり」にせず、必ず最後に、目を自分の手もとへ返すのじゃ。よその庭は、眺めて羨むためではなく、自分の畑に何を蒔くかの、参考にするためにある。――目の向きを変えるだけで、心の向きが変わる。心の向きが変われば、手が動きはじめる。手が動けば、畑が実る。金運とは、まずもって、この“目の向き”の話なのじゃ。」

自分の畑に、何が眠っておるか――まずそれを知れ

とはいえ、いざ目を自分の手もとへ返しても、自分の畑に何が眠っておるのか、どこがうるおい、どこが乾いておるのか、自分ではなかなか見えぬものじゃ。よそ見の癖が長い者ほど、自分の畑を、久しく見ておらぬ。だから、何から手をつければよいか、途方に暮れる。

金運の社の金運タイプ診断は、そなた自身の畑が、どんな土で、何に向いておるか、その傾向を映す鏡じゃ。他人の畑ではなく、自分の畑を見るための、はじめの一歩になる。自分の性分を知れば、「だから私は、あの畑では実りにくく、この畑でこそ実るのか」と、腑に落ちる。他人と比べるためではない。よそ見をやめて、自分の手もとに鍬を入れる、その入れどころを見定めるためじゃ。

そして、朝いちばんに今日の金運をのぞくのも、目を自分へ返す良い足がかりになる。占いや吉日は、他人と自分の優劣を占う道具ではない。「今日は、よそを覗く前に、自分の手もとを一度見る」と、その日ひとつ、自分に小さな約束をするための杭じゃ。すがるためではなく、今日の目の向きを整えるために使え。それが、縁起の正しい使い道というものよ。迷うたときはおみくじを一度引いて、出た言葉を、今日「自分の畑」を見る合言葉にするのも一興じゃ。」

結びに――そなたの実りは、よその庭ではなく、そなたの畑に生る

最後に、この読みものを開いてくれたそなたへ、問いをひとつ残す。難しいことは何もいらぬ。今日一日、こう自分を見張ってみよ。――「私は今日、よその財布を何度覗き、自分の手もとを何度見ただろうか」とな。

その差が、そなたの明日の実りを、静かに決めていく。よその庭が、どれほど青々と実っておっても、その果実は、断じてそなたの口には入らぬ。そなたが食べられるのは、そなたの畑に生った実だけじゃ。よそを羨んで過ごした一日は、そなたの畑に、一粒の実も足さぬ。じゃが、その同じ一日を、自分の畑の手入れに使えば、たとえひと畝でも、確かに実りへ近づく。――どちらを選ぶかは、そなたの目の向き、ひとつよ。

私は、甘い言葉は言わぬ。じゃが、畑を枯らす前には、必ず袖を引く。今、そなたの袖を引いておるのは、そのためじゃ。――よそ見が、まるごと悪いとは言わぬ。他人から学べることもある。じゃが、覗いたら、必ず目を返せ。羨んだら、必ず鍬に変えよ。よその庭を眺めるだけの者の畑は枯れ、よその実りを自分の畑の肥やしに変えられる者の畑は、豊かに実る。同じものを見ても、目の返し方ひとつで、生る実が、まるで違うてくる。私は、そう視ておる。視鬼のコラムは、また次の耳の痛い話を持って、ここで待っておる。よそが気になって苦しくなったら、いつでも戻ってこい。何度でも、そなたの畑を、指してやる。」

※本記事は占い・風水・古くからの言い伝えを、娯楽の範囲でご紹介するものです。記載の内容は効果や結果を保証するものではありません。宝くじ等の当選を保証するものではなく、ゲン担ぎ・縁起としてお楽しみください。暦(吉日)は流派・暦により差が出る場合があるため、実際の日付は最新の暦でご確認ください。健康・体調に関する判断は専門家にご相談ください。一部にプロモーション(PR)を含みます。