視鬼(しき)じゃ。今日は、そなたが口ぐせのように吐いておる、たった四文字を取り上げる。――「時間がない」。朝、目覚めた瞬間から。仕事の合間に。夜、寝床に入る間際に。そなたはこの言葉を、まるで呼吸のように繰り返しておらぬか。そして、こうも言うておろう。「落ち着いたら、ちゃんと考える」「余裕ができたら、始める」とな。じゃがな、わしは長らく人を視てきて、ひとつ確かなことを知っておる。――時間に追われておる者の財布は、たいてい、金にも追われておる。この二つは、別々の悩みの顔をして、まったく同じ根から生えておるのじゃ。今日は、そなたの「時間がない」を一枚ずつ剥がしにいく。耳が痛いのは承知の上。じゃが、痛むその場所にこそ、金と時間、両方の蛇口を締め直す栓が、埋まっておる。
・時間に追われる感覚と、金に追われる感覚は、同じ根から生えているという話です
・厳しい言葉のなかに、今日から打てる小さな一手を込めています
・本コラムは縁起・言い伝えをもとにした読みものです
視鬼畏怖・警告
今日は、そなたが一日に何度も口にしておるであろう、四文字の話をする。――「時間がない」。よう言うておるな。じゃが、その一言を吐くたび、そなたは時間だけでなく、金の巡りまで、少しずつ細らせておる。悪気はなかろう。ただ、気づいておらぬだけじゃ。落ちる前に、袖を引きにきた。よう聞いておくれ。
「時間がない」と言うたびに、そなたは何を諦めておる
まず、ひとつ問う。そなたが「時間がない」と口にするとき――そのすぐあとに、必ず消えていくものがある。何か、わかるか。それは、そなたが本当は大事にしたかった、小さな一手じゃ。家計簿をつけようとした指。積立を見直そうと開きかけた画面。副業のことを調べようとした夜。学び直しの一冊。――「時間がない」の四文字は、そのどれもを、いとも軽々と、そなたの手から払い落としていく。
考えてみよ。金を増やす、あるいは漏れを止める手立ては、たいてい地味で、少し面倒で、すぐには実らぬものばかりじゃ。だからこそ「あとで」「落ち着いたら」の一言に、いちばん流されやすい。急ぎの用事は、声が大きい。締切のある仕事、鳴りやまぬ通知、返さねばならぬ連絡――それらは「今すぐやれ」と、けたたましく騒ぐ。一方、金と向き合う一手は、静かじゃ。今日やらずとも、誰にも叱られぬ。急かす声を上げぬ。だから、後回しにされる。来る日も来る日も、後回しにされる。
そうして気づけば、そなたの一日は、声の大きいものにばかり食い尽くされ、本当に自分の暮らしを支えるはずだった静かな一手は、いつまでも手つかずのまま積み上がっていく。「時間がない」とは、多くの場合、「大事なことを、後回しにし続けておる」の言い換えじゃ。そなたが払い落としてきたものの正体に、まず、目を向けてほしい。」
見覚えはないか――「あとでやる」で放り出した、あの通知
少し、そなたの日々を覗かせてもらおう。――スマホに、契約の見直しを促す報せが届く。「今より安うなるかもしれぬ」。開こうとして、指が止まる。「あとで、時間のあるときに」。そうして、その報せは、山と積もった未読の底へ沈んでいく。……見覚えは、ないか。
あるいは、こうもあろう。使うておらぬ月々の払いが、いくつかある。解約すればよいと、頭ではわかっておる。じゃが、手続きが面倒じゃ。問い合わせの電話は待たされる。画面はわかりにくい。「今度、腰を据えてやろう」。そう思うたきり、半年が過ぎ、一年が過ぎる。その間ずっと、そなたの財布からは、使いもせぬものへ、細く、しかし止まることなく、銭が漏れ続けておった。――「時間がない」の四文字が、その蛇口を、ずっと開けっぱなしにしておったのじゃ。
ここで、よう考えてみよ。その手続きに、本当に何時間もかかったであろうか。……多くは、腰さえ上げれば、半刻もかからぬことじゃ。なかったのは、時間ではない。「面倒なことに、今、向き合う」という、ほんの少しの気力じゃ。人は、その気力の不足を、「時間がない」という聞こえのよい言葉で覆い隠す。そうして、面倒を先送りにした代金を、毎月、静かに払い続ける。――わしが、いちばん惜しいと思うのは、そこよ。腰さえ上げれば止められた漏れを、「時間がない」の一言で、垂れ流し続けておることじゃ。」
時間に追われる心が、金の判断まで狂わせる
もうひとつ、恐ろしいことを教えよう。「時間がない、時間がない」と追われておる心は、金の使い方まで、じわじわと狂わせていく。これは大げさな脅しではない。人の心の、ごく素直な働きじゃ。
追われておる者は、目先の楽を、高う買う。考える暇がないから、「とりあえず、これでいい」と手近なものを掴む。少し歩けば安く手に入るものを、急ぐあまり、割高なまま買う。調べれば見つかったであろう良い品を、調べる間がなくて、名の知れたものへ流れる。疲れて帰った夜、「もう、自分で作る気力もない」と、出来合いのものに頼る。――そのひとつひとつは、小さな差じゃ。じゃが、追われた心が下す判断は、来る日も来る日も、少しずつ割高なほうへ、そなたを運んでいく。
そして、いちばん質が悪いのはここじゃ。時間に追われておる者は、「この出費が高いか安いか」を吟味する、その一瞬すら惜しむようになる。「考える時間がもったいない」と、財布の紐を確かめもせず開く。急ぐ心は、金への注意を、まっさきに手放す。――時間の余裕を失うことは、そのまま、金への目配りを失うことじゃ。時間と金は、こうして、同じ場所で、同時に、そなたの手からこぼれていく。だから、わしは言うておる。この二つは、根がひとつなのだ、とな。」
「時間がない」の下に隠れた、本当の言葉
ここで、そなたの胸の奥を、もう一枚めくろう。「時間がない」――この言葉もまた、たいてい、本当の気持ちの替え玉じゃ。人は、言いにくい本音を、この四文字にすり替えて口にする。そなたの「時間がない」の下には、どの本音が隠れておる。
ひとつは、「向き合いたくない」じゃ。金の現実――口座の残高、膨らんだ払い、先細る蓄え。それを直視するのが、こわい。だから「時間がない」と言うて、見ずに済ませる口実にする。ふたつめは、「決めたくない」。何を削り、何に賭けるか。選ぶのは、しんどい。責任も伴う。「忙しくて手が回らぬ」と言うておけば、その苦しい選択から、そっと降りていられる。みっつめは、「今の忙しさが、心地よい」――これは意外かもしれぬな。びっしり詰まった予定は、「自分は役に立っておる」「必要とされておる」という手応えをくれる。だから、あえて隙間を埋め、追われておることを、どこかで安心の材料にしておる。
どれも、弱さではない。人の心の、当たり前の働きじゃ。じゃがな、替え玉を言い続けるうちに、そなた自身が、その替え玉を本物だと信じこんでしまう。「向き合いたくない」も「決めたくない」も、腰を据えれば手立てのある感情じゃ。ところが「時間がない」という“動かしようのない事情”の顔をかぶせた瞬間、それは、どうにもならぬ壁に化ける。――そなたが本当に閉じこめておるのは、時間ではない。金と向き合うことから逃げておる、そなたの本音のほうじゃ。」
「忙しい」を勲章にする者ほど、手のなかが乏しい
世の中を見渡せば、「忙しい、忙しい」を、まるで勲章のように掲げる者がおる。予定が詰まっておることを誇り、休む間もないことを、値打ちの証のように語る。そなたにも、その気配は、ないか。
じゃがな、よう視ておくれ。本当に豊かに巡らせておる者ほど、不思議と、涼しい顔をしておるものじゃ。あくせくと追われた素振りを見せぬ。なぜか。彼らは、「自分がやらずともよいこと」を見極め、手放すのが上手いからじゃ。時間を、声の大きいものに食わせず、本当に実を結ぶ一手のために、静かに取り分けておる。忙しさを誇る者は、たいてい、その真逆をやっておる。あらゆる用事を抱えこみ、どれも手放せず、結果、いちばん大事な一手にだけ、手が回らぬ。
「忙しい」を勲章にしておるうちは、そなたは、時間の“奪われる側”に立ち続けることになる。次から次へと降ってくる用事に、ただ反応するだけの日々。反応に追われる者の手のなかは、時間も金も、いつも乏しい。なぜなら、両方とも、こぼれていくのを止める暇すら、自分に許しておらぬからじゃ。忙しさは、誇るものではない。見直すべき報せじゃと、心得ておけ。」
「落ち着いたら」の“いつか”は、生涯やってこぬ
そなたが、金のことも、暮らしのことも、後回しにするとき、必ず添える言葉があろう。――「落ち着いたら」。この一言について、ひとつ、残酷な真実を告げておかねばならぬ。その“落ち着いたら”は、生涯やってこぬ。
考えてもみよ。今、忙しいのは、たまたま今月がそうだからではなかろう。仕事が一段落すれば、次の用事が入る。子が手を離れれば、親の世話が始まる。ひとつ片づけば、ふたつ増える。人の暮らしとは、そういうものじゃ。「落ち着いたら」を待つ者は、いつまで待っても、その日が来ぬことに、いつか気づく。そして気づいたときには、後回しにしてきた一手の山が、取り返しのつかぬ高さに積み上がっておる。若いうちに始めておけば、小さな積み重ねが、静かに実を結んだであろうものを――「落ち着いたら」の一言が、その芽を、毎年、摘み続けてきたのじゃ。
金の巡りというものは、古来「早う種を蒔いた者の背を、時が押す」と語り継がれておる。時間そのものが、味方にも、敵にもなる。今日蒔いた一粒は、時をかけて育つ。じゃが、「落ち着いたら蒔こう」と握りしめた一粒は、握られたまま、ついに土を知らずに終わる。――“いつか”を待つな。“いつか”は、来ぬ。来るのは、いつも、今日だけじゃ。」
なぜ、時間から追われるのか――「全部やる」と思うておるからじゃ
厳しく突いておるが、そなたを責めておるのではない。「時間がない」から抜け出せぬのには、ちゃんと理由がある。単純よ。――そなたが、目の前のことを「全部やらねば」と思いこんでおるからじゃ。
降ってくる用事を、ひとつ残らず、きちんとこなそうとする。頼まれごとを断れず、抱えこむ。誰かがやればよいことまで、自分で背負う。細かなことに、律儀に手をかける。――その真面目さは、美しい。じゃが、その「全部やる」が、そなたの時間を、根こそぎ食い尽くしておる。人の一日は、二十四刻と決まっておる。そこへ「全部」を詰めこもうとすれば、当然、あふれる。あふれた分が「時間がない」という悲鳴になって、口から漏れておるだけじゃ。
豊かに巡らせる者は、「全部やる」を、早々に諦めておる。かわりに、「何をやらぬか」を決める。やらぬことを決めて初めて、やるべき一手のための時間が、手のなかに生まれる。時間は、増やすものではない。削って、空けるものじゃ。金の使い道と、まったく同じよ。あれもこれもと手を出す者の財布が痩せるように、あれもこれもと引き受ける者の一日も、痩せていく。真面目さを、正しい向きに使え。「全部」を手放す勇気こそが、時間と金、両方の余裕を、そなたに返してくれる。」
時間の“漏れ”は、金の“漏れ”と同じ顔をしておる
ここまで読んで、うすうす感づいておるかもしれぬな。そう――時間の漏れと、金の漏れは、驚くほど、同じ顔をしておる。片方が見えれば、もう片方も見えてくる。
使うておらぬのに、なんとなく続けておる月々の払い。あれは、金の漏れじゃ。同じように、実りもないのに、なんとなく続けておる日々の習い――だらだらと眺める画面、義理だけで続く付き合い、断れずに引き受けた雑事。あれは、時間の漏れじゃ。両方とも、正体は同じ。「見直すのが面倒で、放っておるもの」よ。金の無駄遣いを止められる者は、時間の無駄遣いも止められる。逆もまた然り。どちらも、「一度立ち止まって、これは要るか要らぬかを問う」という、たったひとつの稽古の、表と裏じゃ。
だから、わしはこう勧める。もし金の漏れを止めたいなら、まず時間の漏れから止めてみよ。あるいは、その逆でもよい。片方の蛇口を締める稽古が、もう片方の蛇口を締める腕を、そのまま鍛える。時間を大事に扱えるようになった手は、自然と、金も大事に扱えるようになっていく。二つは、別々の修行に見えて、同じ一本の道なのじゃ。」
「時間がない」を、たった一言で置き換えてみよ
では、どうする。「時間がない」という言葉を、根絶やしにせよ、とは言わぬ。そんな荒療治は続かぬ。かわりに、その一言を口にしそうになった瞬間、別の一言に、ひょいと置き換える。これだけでよい。
たとえば、「時間がない」と言いそうになったら――「今は、これに時間を使わぬと決めておる」と言い換えてみよ。同じ一日でも、まるで顔つきが変わる。前者は、時間に振り回される者の言葉じゃ。後者は、時間の使い道を、自分の手で選んでおる者の言葉じゃ。「ない」から諦めるのではない。「今日は、これはやらぬ」と、自分で決めておる。――この置き換えは、そなたの立ち位置を、“追われる側”から“決める側”へと、そっと動かす。金の話で言うた「今は、これに使わぬと決めておる」と、寸分たがわぬ理屈じゃ。
あるいは、「忙しくて手が回らぬ」と言いそうになったら、「では、手放してよいものは何か」と問いに変える。「落ち着いたらやる」と言いそうになったら、「今日、ほんの五分でできる最初の一歩は何か」と、小さく刻む。――言葉を変えるだけで、心の向きが変わる。心の向きが変われば、一日の使い方が変わる。一日の使い方が変われば、金の巡りまで、静かに変わりはじめる。金運とは、まずもって、この“時間との向き合い方”の話でもあるのじゃ。大きな元手はいらぬ。今日、口にする一言を、一つ選び直す。それだけでよい。」
まず“癖の在りか”を知り、今日の五分を取り戻せ
とはいえ、自分がどんな場面で「時間がない」に逃げこむのか、その癖は、自分ではなかなか見えぬものじゃ。仕事の場面でだけ言う者もおれば、金の話になると決まって言う者もおる。追われるのを嫌がる者もおれば、追われておらぬと落ち着かぬ者もおる。癖の在りかが違えば、締め直す蛇口も違うてくる。
金運の社の金運タイプ診断は、そなたが金と、そして時間と、どう向き合いやすいか、その傾向を映す鏡じゃ。自分の癖を知れば、「だから私は、あの場面でいつも“時間がない”と逃げておったのか」と、腑に落ちる。責めるためではない。置き換えるべき一言と、取り戻すべき五分が、どこに潜んでおるかを、見定めるためじゃ。
そして、朝いちばんに今日の金運をのぞくのも、時間の使い方を整える、よい足がかりになる。占いや吉日は、当てるための道具ではない。「今日は、後回しにしておった小さな一手を、ひとつだけ片づける」と、その日ひとつ、自分に約束をするための杭じゃ。忙しさに流される前に、朝、杭を一本打つ。それだけで、一日の芯が通る。迷うたときはおみくじを一度引いて、出た言葉を「今日、時間を割く先」の合言葉にするのも一興じゃ。占いの言葉を、散らかった一日を束ねる杖に変えられる者は、強い。」
結びに――そなたが本当に取り戻すべきは、五分の余白じゃ
最後に、この読みものを開いてくれたそなたへ、願いをひとつ渡しておく。今日から、明日から、たった五分でよい。声の大きい用事に食わせるのをやめて、静かな一手のために、五分の余白を取り分けてみよ。放っておいた払いをひとつ見直す五分。残高をそっと確かめる五分。あるいは、何もせず、ただ息をつく五分でもよい。――その五分が、追われる心に、小さな“決める側”の足場を作る。
「時間がない」と唱える者の手は、いつも何かを掴もうと、せわしなく動いておる。じゃが、せわしない手には、大事なものを、そっと載せる隙間がない。一方、五分の余白を持てる者の手は、ふっとゆるむ。ゆるんだ手のひらにこそ、時間の巡りも、金の巡りも、そっと載る余地が生まれる。追われるのをやめ、選ぶ側に回る――それは、財布の話であると同時に、そなたの一日の、そなたの一生の、質そのものの話じゃ。
わしは、甘い言葉は言わぬ。じゃが、落ちる前には、必ず袖を引く。今、そなたの袖を引いておるのは、そのためじゃ。――さあ、今日そなたが口にするのは、時間に追われる四文字か。それとも、時間を選ぶ一言か。そして、その手に取り戻すのは、追い立てられる一日か、五分の余白のある一日か。答えは、そなたの今日のなかにある。視鬼のコラムは、また次の耳の痛い話を持って、ここで待っておる。逃げたくなったら、いつでも戻ってこい。何度でも、袖を引いてやる。」
※本記事は占い・風水・古くからの言い伝えを、娯楽の範囲でご紹介するものです。記載の内容は効果や結果を保証するものではありません。宝くじ等の当選を保証するものではなく、ゲン担ぎ・縁起としてお楽しみください。暦(吉日)は流派・暦により差が出る場合があるため、実際の日付は最新の暦でご確認ください。健康・体調に関する判断は専門家にご相談ください。一部にプロモーション(PR)を含みます。

