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コラム連載 ・ 視鬼

【視鬼のコラム】「もっと、もっと」と渇く者は、いくら手にしても満たされぬ

足りぬのは金ではない。数えていないだけじゃ

コラム連載
視鬼畏怖・警告ろうそくの火のむこうから、目をそらしたくなる本質を鋭く突く警告の語り手。主な発信:TikTok ・ プロフィールを見る →

視鬼(しき)じゃ。今日は、そなたの胸の奥で、夜ごと小さく燃えつづけておるであろう、ある声の話をする。――「もっと」。もっと稼ぎたい。もっと欲しい。もっと良い暮らしを。もっと、もっと。この声そのものは、罪ではない。人を働かせ、伸ばし、明日へ向かわせる、尊い火でもある。じゃがな、私にはこう視える。そなたのその火は、いつのまにか薪を焼き尽くす種類の火に変わってはおらぬか。給料が上がっても、欲しかったものを手にしても、うれしいのは半日、長くて三日。気づけば、心はもう次の「もっと」を探してうずいておる。――そなたは、けっして怠け者ではない。むしろ、走りつづける勤勉な者じゃ。じゃがその走りが、たどり着けぬ地平を追う走りだとしたら。今日は、その渇きの正体を、一枚ずつ剥がしにいく。耳が痛いのは承知の上。じゃが、痛むところにこそ、渇きを癒す井戸の在りかが隠れておるのじゃ。

この記事のポイント・「もっと欲しい」がいつまでも止まらず、満たされなさを抱える人へのコラムです
・足りないのは金ではなく、今あるものを数える前に、次を欲しがる癖かもしれません
・厳しい言葉のなかに、救いを込めています。欲を否定して終わりにはしません
・本コラムは縁起・言い伝えをもとにした読みものです

視鬼畏怖・警告

今日は、そなたの胸の底で、いつまでも消えぬ「もっと」という声の話をする。悪いものではない。人を前へ押す火でもある。じゃが、その火が、いつしかそなた自身を焦がし、どれだけ薪をくべても暖まらぬ体にしておるとしたら――聞かずに済ませられるか。よう聞いておくれ。

手に入れた喜びは、なぜ、こうも早う冷めるのか

まず、そなた自身が薄々気づいておることから、はっきり言葉にしよう。――欲しかったものを手にしたときの喜びは、恐ろしく足が速い。あれほど焦がれた品も、届いて箱を開けた瞬間が頂きで、そこから先は、日を追うごとに、当たり前の景色に沈んでいく。ひと月も経てば、それがそこにあることすら、忘れておる。

これは、そなたの心が薄情だからではない。人の心には、手にしたものを、みるみる「当たり前」へと塗り替えていく働きが備わっておるのじゃ。良くも悪くも、な。昨日の贅沢は、今日の普通になる。去年あこがれた暮らしは、今年の退屈になる。だからこそ、そなたはまた次を欲しがる。喜びの熱が冷めた寒さを、新しい買い物の熱で埋めようとする。じゃが、その熱もまた、同じ速さで冷めていく。――そなたが追うておるのは、けっして手の届かぬ地平線じゃ。一歩進めば、地平線も一歩逃げる。走っても走っても、距離は縮まらぬ。汗ばかりが流れる。心当たりは、ないか。」

見覚えはないか――買い物かごの中の「昨日の憧れ」

少し、そなたの日々を覗かせてもらおう。――そなたの部屋を、静かに見回してみよ。かつて、これさえあればと願うた品が、いくつも転がってはおらぬか。数回使うたきりの器具。憧れて手に入れた服。あの頃は、これを持てば満たされると信じておったはずのものが、今は、埃をうっすらかぶって、そこにおる。

そして、そなたの目は、それらの上を素通りして、また画面のなかの「まだ持っておらぬ何か」に吸い寄せられておる。――見覚えは、ないか。この繰り返しの、いちばん恐ろしいところを教えよう。そなたは、過去の自分が必死に願うて手に入れたものを、今の自分が、一度もちゃんと味わわぬまま、次へ次へと乗り換えておるということじゃ。昨日の憧れを、今日の自分が踏み台にしておる。過去のそなたが「これで満たされる」と信じたものを、今のそなたが「これでは足りぬ」と裏切りつづけておる。

ここで、よう考えてみよ。もし、そなたが次に欲しいものを手に入れたとして――それもまた、半年後には、あの埃をかぶった品々の仲間になるのではないか。そうではないと、言い切れるか。……言い切れぬなら、そなたが埋めようとしておるのは、財布の穴ではない。心にあいた、別の穴じゃ。私が、いちばん案じておるのは、そこよ。」

「もっと」の下に隠れた、本当の飢え

ここで、そなたの胸の奥を、もう一枚めくろう。「もっと欲しい」――この声は、たいてい、金や品そのものを欲しがっておるのではない。その下に、別の飢えが隠れておる。そなたの「もっと」の下には、どの飢えが潜んでおる。

ひとつは、「認められたい」じゃ。良いものを持てば、人が一目置く。稼げば、値打ちのある者と見られる。じゃから、もっと稼ぎ、もっと持とうとする。欲しいのは品ではなく、それを持つ自分に向けられる、まなざしのほうじゃ。ふたつめは、「怖い」。減るのが怖い、取り残されるのが怖い、いつか足りなくなるのが怖い。だから、いくら貯めても「もっと」と手を止められぬ。満たしておるのではない。恐れから逃げつづけておるのじゃ。みっつめは、「埋めたい」。心のどこかにあいた、寂しさや虚しさの穴を、買い物や数字で埋めようとする。じゃが、金で買えるもので、心の穴は埋まらぬ。埋まった気がするのは、買った瞬間だけ。だから、また買う。

どれも、卑しさではない。人の心の、当たり前の飢えじゃ。じゃがな、金や品で癒そうとするかぎり、これらの飢えは、けっして満ちぬ。なぜなら、飢えの在りかと、癒そうとしておる場所が、まるで違うからじゃ。喉が渇いておる者が、いくら腹を満たしても、渇きは消えぬのと同じことよ。――そなたが本当に飢えておるものを、まず、その正体から見定めねばならぬ。」

「足るを知る」とは、我慢して諦めることではない

こう言うと、そなたはこう返すかもしれぬ。「では、欲を捨てて、今あるもので我慢せよと言うのか」と。――違う。まったく違う。私は、そなたに欲を捨てよとは、ひとことも言うておらぬ。欲は、そなたを生かす火じゃ。消してはならぬ。

古来「足るを知る」という言葉があるが、これを「我慢」や「諦め」と取り違えておる者が、あまりに多い。ほしいものを我慢して、小さく縮こまって生きよ――そんなさもしい教えではない。「足るを知る」とは、今、自分の手のなかに何が載っておるかを、まず正しく数えられる、ということじゃ。数えもせずに「足りぬ」と言うのと、ちゃんと数えた上で「これに、さらにこれを足したい」と願うのとでは、天と地ほども違う。

前者は、底の抜けた桶に水を注ぐようなもの。どれだけ注いでも、満ちた実感がないまま、注ぐことに疲れ果てる。後者は、桶の底をふさいでから、水を注ぐ。同じだけ注いでも、こちらは、ちゃんと溜まっていく。――欲を持ってよい。大いに欲張ってよい。じゃが、その前に、桶の底をふさげ。今あるものを、一度ちゃんと数えよ。話は、それからじゃ。」

「隣」と比べる者の桶には、いつまでも底が張らぬ

桶の底に穴をあけておるものは何か。そのいちばん大きな穴が、これじゃ。――「隣」と比べる癖。そなたの「もっと」は、たいてい、自分の内側から湧いておるのではない。「隣の者が持っておる」「あの者はもっと稼いでおる」――そういう、外の景色に火をつけられて燃えておるのじゃ。

これが、いちばんたちが悪い。なぜなら、隣は、限りなくおるからじゃ。ひとりに追いついても、その隣には、また上がおる。上を見ればきりがなく、追えば追うほど、自分の手のなかのものが、みすぼらしく見えてくる。じゅうぶんに持っておるはずの者が、比べた瞬間、「足りぬ」者に転落する。――そなたの渇きは、そなたのものではないかもしれぬ。他人の暮らしを覗いて、勝手にこちらへ移してきた、借り物の渇きよ。

金運の巡りというものは、古来「己の分を、己の目で数えられる者の背を押す」と語り継がれておる。逆に、隣ばかりを見て、自分の手のなかを見ぬ者の桶からは、せっかく溜まったものも、実感を伴わずこぼれ落ちていくという。――なぜなら、こぼれたことにすら、気づけぬからじゃ。まず、目を上げるのをやめよ。隣ではなく、自分の手のひらへ、目を落とせ。話は、そこからじゃ。」

止まらぬ渇きが、静かに奪っていくもの

「もっと」が止まらぬことの、本当の代金を教えよう。それは、金でも品でもない。もっと、取り返しのつかぬものじゃ。――「今、ここ」を味わう力じゃ。

渇きに追われる者は、いつも心が、まだ手にしておらぬ「次」へ飛んでおる。目の前の一杯の茶を、味わえぬ。せっかくの休みの日も、頭のなかは次の稼ぎや買い物のことでいっぱいで、そこにおらぬ。愛する者と食卓を囲んでおっても、心は上の空。今、目の前にある小さな幸いが、指のあいだから、次々とこぼれ落ちていく。――そなたは、まだ来ておらぬ未来の豊かさを追うあまり、今、確かに手のなかにある豊かさを、まるごと踏みつけて走っておるのじゃ。

これは、脅しではない。むしろ、そなたの背を押すために言うておる。考えてもみよ。どれほど稼ぎ、どれほど手に入れても、それを味わう心が留守なら、そなたはいつまでも「持っておらぬ者」のままじゃ。逆に、たとえ今、懐がさびしくとも、今あるものを味わえる心を取り戻せば、そなたはその瞬間から「持っておる者」になる。――豊かさとは、懐の金高のことではない。それを味わえる、心の在りようのことよ。ここを取り違えておるかぎり、そなたは山ほど積んでも、飢えたままじゃ。」

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その渇きは、いちばん近しい者の心も、渇かせる

もうひとつ、静かに、じゃが確かに突いておかねばならぬことがある。そなたの止まらぬ「もっと」は、そなた一人を乾かすだけでは済まぬ。いちばん近しい者の心まで、そっと乾かしていく。

「もっと」に追われる者は、口ぐせのように、こう漏らす。「まだ足りぬ」「うちはまだまだ」「こんなものでは満足できぬ」。この言葉を、いちばん近くで聞いておるのは誰じゃ。そなたと暮らしを共にする者じゃ。その者は、そなたと同じ食卓につき、同じ屋根の下におりながら、「私たちの暮らしは、この人にとって“まだ足りぬ”ものなのだ」と、毎日聞かされることになる。――そなたの渇きは、いつのまにか、そばの者に「あなたでは足りない」と言うておるのと、同じ響きを持ってしまう。

そなたに、その気はなかろう。むしろ、その者のために、もっと良い暮らしをと願うて走っておるのかもしれぬ。じゃが、その走りが速すぎて、隣の者の手を離してしまっておるとしたら、本末が転倒しておる。誰かを幸せにするために積んだはずのものが、積むことに夢中になるあまり、その誰かを、置き去りにしておる。――ときどき、走る足を止めて、隣を見よ。そなたが本当に豊かにしたかった者は、今、そなたの隣で、どんな顔をしておる。」

なぜ、止められぬのか――渇きは“走っておる感じ”をくれるからじゃ

厳しく突いておるが、そなたを責めておるのではない。「もっと」が止められぬのには、ちゃんと理由がある。――渇いて走っておると、前へ進んでおる気がするからじゃ。

次を欲しがり、次を追いかけておるあいだは、そなたは「向上しておる」「頑張っておる」という手応えに包まれる。立ち止まって、今あるものを味わうのは、なんだか怠けておるようで、落ち着かぬ。取り残される気がして、こわい。だから、満たされておらぬほうが、むしろ心地よい。渇いておるほうが、生きておる気がする。――人の心は、こういう厄介な仕組みを持っておる。満足を、どこかで「終わり」や「停滞」と勘違いしておるのじゃ。

じゃがな、走りつづける手応えには、隠れた代金がついておる。その代金は、“到着”という喜びを、一生味わえぬことじゃ。ゴールに着いても、味わう前に次のゴールへ走り出すのだから、そなたは永遠に、着かぬ。旅の景色を楽しむことなく、ただ息を切らして走りつづける旅人よ。――たまには、立ち止まってよいのじゃ。立ち止まって、今いる場所の景色を眺めることは、怠けではない。それこそが、旅の目的だったのではないか。」

今日、たった一つだけ、「もう、ある」を数えてみよ

では、どうする。欲を捨てよとは言わぬ。走るのをやめよとも言わぬ。かわりに、今日一日、たった一つだけ、「まだ足りぬ」の代わりに「もう、ある」を数える。これだけでよい。

朝、目が覚めたら、次に欲しいものを思い浮かべる前に、今すでに手のなかにあるものを、ひとつだけ数えてみよ。「もう、屋根の下で眠れておる」「もう、今日食べるものはある」「もう、案じてくれる者がおる」――なんでもよい。当たり前と思うて素通りしておるものに、ひとつだけ、目を留める。そして、心のなかで小さく「もう、ある」と唱える。これは、欲を捨てることではない。桶の底を、ひとつずつ、ふさいでいく稽古じゃ。

不思議なもので、「もう、ある」を数えられるようになった者ほど、次に手にしたものを、ちゃんと味わえるようになる。味わえるから、喜びが早く冷めぬ。冷めぬから、渇きに追われずに済む。追われぬから、心に余裕が生まれる。――そして、金運の巡りは、古来「乾いてがつがつと掴みにくる手より、満ちて、ゆるりとひらいた手のほうへ、次を載せる」と語り継がれておる。断じて保証はせぬがな。じゃが、渇きに追われて掴んだものより、満ちた心で迎え入れたもののほうが、長く手に留まる。この理は、そなたも薄々、感じておろう。」

そなたの渇きの“形”を知れば、癒し方も見えてくる

とはいえ、自分の「もっと」が、どの飢えから来ておるのか――認められたいのか、こわいのか、埋めたいのか――その形は、自分ではなかなか見えぬものじゃ。人前で強く出る者もおれば、独りのときにだけ渇く者もおる。数字を追う者もおれば、品を追う者もおる。飢えの形が違えば、桶の底のふさぎ方も、違うてくる。

金運の社の金運タイプ診断は、そなたが金と、そして「もっと」と、どう向き合いやすいか、その傾向を映す鏡じゃ。自分の渇きの形を知れば、「だから私は、あの場面でいつも“まだ足りぬ”と焦っておったのか」と、腑に落ちる。責めるためではない。癒すべき飢えが、どこに潜んでおるかを、見定めるためじゃ。

そして、朝いちばんに今日の金運をのぞくのも、渇きを鎮める良い足がかりになる。占いや吉日は、次の獲物を当てるための道具ではない。「今日は、次を欲しがる前に、もう手にしておるものを、ひとつ味わう」と、その日ひとつ、自分に小さな約束をするための杭じゃ。すがるためではなく、今日の心の向きを整えるために使え。それが、縁起の正しい使い道というものよ。迷うたときはおみくじを一度引いて、出た言葉を、今日「もう、ある」を数える合言葉にするのも一興じゃ。」

結びに――そなたの井戸は、外ではなく、足もとにある

最後に、この読みものを開いてくれたそなたへ、問いをひとつ残す。難しいことは何もいらぬ。今日一日、こう自分を見張ってみよ。――「私は今日、“まだ足りぬ”と何度つぶやき、“もう、ある”と何度つぶやいただろうか」とな。

渇いた旅人は、水を求めて、地平線の彼方へ、彼方へと走りたがる。じゃが、真に喉を潤す井戸は、たいてい、走り去ろうとしておる、その足もとに湧いておるのじゃ。そなたが「足りぬ、足りぬ」と踏みつけて走ってきた、今、ここ。そこにこそ、渇きを癒す水がある。外にばかり求めておるかぎり、その水の音は、けっして聞こえぬ。走る足を止めて、耳を澄ませて、はじめて聞こえる。

私は、甘い言葉は言わぬ。じゃが、乾いて倒れる前には、必ず袖を引く。今、そなたの袖を引いておるのは、そのためじゃ。――欲を捨てよとは言わぬ。大いに欲張れ。でかく望め。じゃが、走り出す前に、まず一度、足もとの井戸で喉を潤せ。満ちた者の走りは、遠くまで、しなやかに届く。渇いた者の走りは、すぐに息切れする。同じ道を走っても、心の潤いひとつで、たどり着ける場所が、まるで違うてくる。私は、そう視ておる。視鬼のコラムは、また次の耳の痛い話を持って、ここで待っておる。渇いて苦しくなったら、いつでも戻ってこい。何度でも、足もとの井戸を、指してやる。」

※本記事は占い・風水・古くからの言い伝えを、娯楽の範囲でご紹介するものです。記載の内容は効果や結果を保証するものではありません。宝くじ等の当選を保証するものではなく、ゲン担ぎ・縁起としてお楽しみください。暦(吉日)は流派・暦により差が出る場合があるため、実際の日付は最新の暦でご確認ください。健康・体調に関する判断は専門家にご相談ください。一部にプロモーション(PR)を含みます。