視鬼(しき)じゃ。今日は、そなたの本棚と、そなたの通帳、その両方に刻まれた、ある習いの話をする。――本棚には、途中まで読んで止まった教材が、背表紙をそろえて並んでおる。通帳には、講座やら教材やらの支払いが、季節ごとに刻まれておる。そなたは、それを見て、うしろめたさを感じるどころか、むしろ誇らしい。「わしは、学びを止めぬ人間じゃ」「これは浪費ではない、自己投資じゃ」――そう自分に言い聞かせ、今日もまた、新しい教材を、籠へ入れる。悪いこととは言わぬ。学ぶ姿勢そのものは、尊い。じゃがな、私にはこう視える。そなたは、学びの入口を、幾度も幾度もくぐり直しては、いつまでも“中”へ入らぬ。学ぶことに励むあまり、学んだことを“使う”という、いちばん怖い一歩を、上手に避けつづけておる――と。今日は、その「学び続ける」と「動かぬ」のあいだに、そっと隠れておる本音を、一枚ずつ剥がしにいく。耳が痛いのは承知の上。じゃが、痛むところにこそ、そなたの学びを“実り”に変える、ただ一つの鍵が隠れておるのじゃ。
・「自己投資」という立派な言葉が、じつは「動かずに済ませる」ための隠れ蓑になっていないかを問います
・厳しい言葉のなかに、救いを込めています。学ぶこと自体は否定しません
・本コラムは縁起・言い伝えをもとにした読みものです
視鬼畏怖・警告
今日は、そなたが胸を張って口にしておるであろう、ある言葉の話をする。――「自己投資」。まことに立派な言葉じゃ。学ぶことは、尊い。それは、わしとて疑わぬ。じゃがな、その尊い言葉が、そなたの“動かぬ言い訳”の隠れ蓑になっておるとしたら――聞かずに済ませられるか。よう聞いておくれ。
「自己投資」は、いちばん反論しにくい言い訳じゃ
まず、そなたの盾になっておる、その言葉から突きつけよう。――「自己投資」。この言葉の、なんと使い勝手のよいことか。遊びに使えば「浪費」と後ろ指をさされる。じゃが、学びに使えば「投資」と胸を張れる。同じく銭が財布から出ていくのに、名前が変わるだけで、うしろめたさが、誇らしさに化ける。
それだけではない。「自己投資じゃ」と言われたら、誰も、それ以上は責められぬ。「学ぶな」とは、誰も言えぬからな。そなた自身の心も、この言葉の前では、追及の手をゆるめる。「学びに使うたのだから、無駄ではない」――そう思えば、それ以上、自分を問い詰めずに済む。「自己投資」は、他人の口も、自分の心も、いちばん黙らせやすい魔法の言葉じゃ。
じゃがな、投資と名がつくものには、本来、必ず問われるべきことがある。――「で、それは何を生んだ」という問いじゃ。銭を投じたなら、そこから何が返ってきたかを問うのが、投資というものの筋よ。ところが「自己投資」という言葉は、なぜかその問いを、するりと免れる。学んだこと“そのもの”が目的にされ、「で、それで何が変わった」が、一度も問われぬ。今日は、この、いちばん問われずに来た問いを、そなたに突きつける。」
見覚えはないか――買った“安心”で、満たされてしまう
少し、そなたの胸の内を覗かせてもらおう。――新しい教材を手に入れた、あの瞬間を思い出してみよ。まだ一頁も開いておらぬのに、そなたの心は、すでに満ち足りておらぬか。「これで、わしは前に進める」「これさえ学べば、道がひらける」。手にした重みが、そのまま、未来への希望のように感じられる。
ところが、日が経つにつれ、その教材は、机の隅に移り、本棚に収まり、やがて背表紙だけの存在になる。中身は、半ばまで。あるいは、封も切らぬまま。それでも、そなたは、たいして困らぬ。なぜなら――そなたが本当に欲しかったのは、その中身ではなく、「これを手に入れた」という安心のほうだったからじゃ。見覚えは、ないか。
これは、恐ろしいことよ。学びの“中身”ではなく、学びを“買った”という事実で、心が満たされてしまう。すると、実際に手を動かして試す――という、いちばん骨の折れる一歩を、踏まずに済んでしまう。買った瞬間に満足するから、使う動機が、消えてしまうのじゃ。そなたは、学びを“消費”しておるのであって、“活用”しておるのではない。この、手に入れた安心で終わる癖は、「もっと、もっと」と渇きつづける心とも、根が通じておる。それは「もっと、もっと」と渇く者は、いくら手にしても満たされぬで、たっぷり袖を引いた。」
学びつづける者が、いちばん“動く”のを恐れておる
もうひとつ、いちばん耳の痛いことを言おう。学びを止められぬ者ほど、じつは、心の底で“動く”ことを、誰よりも恐れておる。――これは、逆説のようじゃが、深いところの真実よ。
考えてみよ。学んでおる間は、安全じゃ。失敗もせぬ。恥もかかぬ。誰にも否まれぬ。教材を開き、頷いておるかぎり、そなたは「前に進んでおる」気になれる。ところが、学んだことを“試す”一歩を踏み出した途端――そこには、失敗が待っておる。うまくいかぬかもしれぬ。笑われるかもしれぬ。思うた成果が出ぬかもしれぬ。この“怖さ”から逃れるために、人は、次の学びへ、次の学びへと、逃げこむのじゃ。「まだ、学びが足りぬから」――この一言があれば、動かずにおる自分を、いくらでも正当化できる。
「まだ準備ができておらぬ」「もう少し学んでから」「完璧に理解してから」――そなたの口から出るこれらの言葉は、謙虚に見えて、その実、“動かぬための、上等な言い訳”じゃ。準備は、いつまでも整わぬ。完璧な理解など、動きながらでしか手に入らぬ。学びを、動かぬための隠れ蓑にしておるかぎり、そなたは永遠に、入口の手前で足踏みしつづける。この“今のままでいたい”という心の底については、「今のままでいい」と言うそなたに、福は近寄れぬで、深く突いた。あわせて聞け。」
「いつか活かす」の“いつか”は、自分では来ぬ
ここで、そなたが教材を捨てられぬ理由に、名をつけておこう。――「いつか、活かすときが来る」じゃ。今は使わぬが、いつか役に立つ。だから、学んでおいて損はない。……この“いつか”を、そなたはどれほど待った。
厳しいことを言うぞ。「いつか活かす」の“いつか”は、そなたが自分で呼ばぬかぎり、決して自分からは来ぬ。学びは、種のようなものじゃ。種は、棚に並べておくかぎり、いつまでも種のまま。土に埋め、水をやり、手をかけて初めて、芽を出す。ところが、そなたのやっておることは、種を買い集め、袋のまま棚に並べ、その数を眺めて満足しておるだけ。どれだけ良い種を、どれだけ多く集めても、埋めぬ種は、一粒の実もつけぬ。
「いつか当たる」と言うて動かぬ者の話は、以前「いつか当たる」――その口癖が、あなたから金を遠ざけているで、みっちり語った。学びの「いつか活かす」も、根はまったく同じよ。“いつか”に逃げるかぎり、種は袋のまま朽ちる。金運の巡りは、古来「学びを蓄える者ではなく、蓄えた一つを土に埋める者の背を押す」と語り継がれておる。断じて保証はせぬがな。じゃが、埋めぬ種からは、何も生えぬ。この理だけは、天地がひっくり返っても変わらぬ。」
「知っておる」と「できる」は、まるで別ものじゃ
そなたの陥っておる、いちばん深い錯覚を、ここではっきり言うておく。――そなたは、「知っておること」を、「できること」と、取り違えておる。教材を読み、講座を受け、頷いた。だから「わしは、それを身につけた」と思うておる。じゃが、それは、大きな思い違いよ。
泳ぎの本を、百冊読んだとて、水に入らねば、一かきも進めぬ。料理の講座を、幾つ受けたとて、包丁を握らねば、一皿も作れぬ。「知っておる」と「できる」のあいだには、“やってみる”という、深い河が流れておる。そなたは、この河のこちら岸で、向こう岸の景色を眺めては「もう渡った気」になっておるだけじゃ。景色をどれだけ詳しく知ろうと、足を濡らさぬかぎり、そなたは一歩も、向こう岸には立っておらぬ。
そして、この河は、学べば学ぶほど、かえって渡りにくくなる。なぜなら、知識が増えるほど、「まだ知らぬこと」も見えてきて、「もっと学んでから」の言い訳が、いくらでも湧いてくるからじゃ。知は、動くための翼にもなるが、動かぬための言い訳の“肥やし”にもなる。どちらに使うかは、そなた次第。――問おう。そなたの学びは、河を渡る翼になっておるか。それとも、こちら岸に居すわるための、心地よい寝床になっておるか。」
「一つ学んだら、一つ試す」――この釣り合いを取れ
では、どうする。学ぶのをやめよ、とは言わぬ。それは、そなたの良いところまで捨てることになる。言いたいのは、たった一つ――「学ぶ」と「試す」の、釣り合いを取れ、ということじゃ。
今のそなたは、天秤が、片側に傾ききっておる。「学ぶ」の皿にばかり、次々と重しを載せ、「試す」の皿は、空っぽのまま。これでは、いくら学びを積んでも、天秤は動かぬ。傾いたまま、地についてしまう。だから、こう決めよ。――「一つ学んだら、その一つを、必ず一つ、試すまでは、次を学ばぬ」とな。この“堰(せき)”を、自分に一つ設けるだけで、そなたの学びは、劇的に変わる。
この堰があると、面白いことが起きる。まず、無闇に教材を買わなくなる。「試すまで、次は買えぬ」となれば、買う手が、自然と慎重になるからじゃ。そして、買った一つを、隅々まで使い倒すようになる。試すことを前提に学ぶと、頭に入る深さが、まるで違うてくる。読み流していた頃とは、別ものよ。――学びを“集める”のをやめ、学びを“回す”。一つ学び、一つ試し、そこで得たものを、また次の学びへ。この“回転”こそが、学びを実りに変える、ただ一つの道じゃ。」
試して失敗した学びだけが、そなたの“血肉”になる
そなたが、いちばん恐れておる“失敗”について、ここで名誉を回復しておこう。失敗は、学びの敵ではない。むしろ、失敗こそが、学びを、そなたの血肉に変える、ただ一つの火よ。
教材で読んだだけの知は、他人の言葉じゃ。借り物ゆえ、いざというとき、手が動かぬ。ところが、自分で試し、しくじり、「ああ、ここでこう間違えるのか」と、身をもって知った学びは――もはや、そなた自身の言葉になる。二度と忘れぬ。次からは、自然と手が動く。試して転んだ回数だけ、学びは、借り物から、そなた自身のものへと変わっていく。転ばずに済ませた学びは、いつまでも他人のもののまま、そなたの中を素通りしていくのじゃ。
金運の巡りは、古来「安全な場所で頷く者ではなく、恐る恐るでも一歩を踏み出す者の背を押す」と語り継がれておる。動けば、当然、しくじりもする。じゃが、そのしくじりの一つ一つが、実りへの道をならしていく。転ぶことを恐れて、こちら岸で本を読みつづける者のところには、いつまでも景色しか届かぬ。――そなたに問う。そなたは、しくじらぬ代わりに、何も掴めぬ一年と、幾度も転ぶ代わりに、確かに前へ進む一年、どちらを選ぶ。」
今日の一手――“棚の一つ”を、今日ひとつ試せ
ここまで聞いて、「よし、今日から全部の教材をやり直すぞ」と勇むな。それでは、また“学び直し”という名の足踏みに、逆戻りじゃ。今日、そなたがやることは、たった一つでよい。
――そなたの本棚か、記憶の隅から、「学んだが、まだ一度も試しておらぬこと」を、一つだけ選び出せ。どれでもよい。いちばん小さく、いちばん簡単に試せそうなものでよい。そして、その一つだけを、今日、実際に手を動かして、試してみよ。ほんの五分でよい。一行でも、一手でもよい。大事なのは、“知っておること”を、今日、初めて“やってみること”に変える――それだけじゃ。
この「棚の一つを、今日ひとつ試す」には、途方もない意味がある。そなたは今日、幾度もくぐるばかりだった学びの入口を、生まれて初めて、くぐり抜けて“中”へ入る。景色を眺めるだけの岸から、足を濡らして河へ入る。この“最初のひとしずく”が、そなたの心に、「わしは、学ぶだけの人間ではない。動ける人間じゃ」という、確かな手ざわりを刻む。金運とは、まずもって、この“動いた”という手ざわりの積み重ねなのじゃ。大きな元手はいらぬ。今日、棚の一つを、試す。それだけで、そなたの学びは、初めて“実り”へと動きだす。」
自分の“動けぬ癖”の在りかを知れば、堰を築ける
一つ試したら、次は「なぜ私は、これまで試さずにいられたのか」を、静かに省みよ。人が“動く”のを避ける急所は、みな違う。失敗の恥を、人一倍恐れる者。完璧でないと踏み出せぬ者。学ぶ心地よさに、ただ酔うておる者――急所が違えば、築くべき堰の形も違うてくる。
金運の社の金運タイプ診断は、そなたが金や機会とどう向き合いやすいか、その傾向を映す鏡じゃ。自分の急所を知れば、「だから私は、いつも“もう少し学んでから”に逃げておったのか」と腑に落ちる。責めるためではない。次に足がすくんだとき、「ああ、これがわしの癖じゃ」と見抜き、それでも一歩を出すためじゃ。
そして、「今日こそ試す」と決めた日は、朝いちばんに今日の金運をのぞいて、自分に杭を打つのもよい。何かを新しく始めるなら、天赦日のような最上の吉日を、その“最初の一歩”の日と定めるのも一興じゃ。占いや吉日は、当てるための道具ではない。「今日、動く」と、その日ひとつ、自分に約束するための杭じゃ。すがるためではなく、すくむ足を、前へ押し出す合図に使え。それが、縁起の正しい使い方というものよ。」
わしの覚え書き――三つだけ、持ち帰れ
今日の話は、これで終いじゃ。じゃが、読んで頷いて終わりでは、それこそ今日の話も“試さぬ学び”の仲間入りじゃ。後で立ち返れるよう、わしの言葉を、三つだけ、短く括って渡しておく。本棚の見えるところに、書き写しておけ。
一、「自己投資」には、必ず「で、何を生んだ」を問え。――投じたなら、返りを問うのが筋。学びそのものを、目的にすり替えるな。
二、「知っておる」は、「できる」ではない。河を渡れ。――足を濡らさぬかぎり、向こう岸には一歩も立っておらぬ。
三、「一つ学んだら、一つ試すまで、次を学ばぬ」。――この堰を一つ築くだけで、集める学びが、回る学びに変わる。
この三つを、教材を買う手が動くたび思い出せる者は、二度と“棚の肥やし”に銭を注がぬ。種を埋める者のところにだけ、実りは巡る。――覚えておけ。」
結びに――そなたの学びは、翼か、寝床か
最後に、この読みものを開いてくれたそなたへ、問いをひとつ残す。難しいことは何もいらぬ。次に新しい教材へ手が伸びたとき、こう自分に問うてみよ。――「この学びは、私を前へ運ぶ翼か。それとも、動かずに済ませるための、心地よい寝床か」とな。
その問い一つが、そなたの一年後を、静かに分けていく。厳しいようだが、これは救いじゃ。なぜなら、そなたには、すでに十分すぎるほどの学びが、蓄えられておるからじゃ。足りぬのは、知識ではない。埋める一歩、渡る一歩、試す一歩――たった、それだけよ。そして、その一歩は、今日からでも、どんなに小さくても、踏み出せる。新しい教材は、もう要らぬ。棚にある一つを、今日、土に埋めよ。
私は、甘い言葉は言わぬ。じゃが、良い種を抱えたまま、袋の前で立ちすくんでおる者を、黙って見過ごしはせぬ。今、そなたの袖を引いておるのは、そのためよ。次に耳の痛い話を持ってくるのは、断れずに付き合いで身を削る者へ――誘いを断れず、付き合いの飲みで財布と刻を削られるそなたへのところじゃ。あわせて、細かな得に刻を奪われる者への話、ポイント還元を追い、一円を拾って一万を取りこぼす者よも、そなたの“刻の使い方”を照らしてくれよう。逃げたくなったら、いつでも戻ってこい。何度でも、袖を引いてやる。――なお、ここで語ったのは古(いにしえ)からの言い伝えと心の話であって、成果を請け合うものではない。種を埋める手綱は、いつでもそなた自身の手にあると心得よ。」
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